1999年10月1日
われわれ地球人類は今、地球温暖化を始めとした環境問題の“不実”、「国債の発行が
国民の借金となり、子孫につけを回す」”と言った様々な経済政策の“デタラメ”などが堂々
とまかり通る、「真(まこと)」の全く通用しない欺瞞に満ちた暗黒の世の中で暮らしている。
人間は自然によって経済が存在している事実を忘れ、政治の世界では"経済や"福祉"の
仕組みについての議論に終始している。
経済の奴隷と化した国際社会。地球はそれを横目にしながら、人間を生かしてはおかない
環境にしつつある。
地球人類は自らの手によって寿命を刻一刻と短縮させている。
経済が自然に力を加えた分だけ、自然が今、経済に力を加えようとしている。更に人間は
"貨幣"によって生きているという、大きな認識の過ちを犯し、人間の摂取する食糧、環境を
破壊している。
開発途上国の先進国化は"貨幣経済"を推し進め、それによって今世紀中に必ず"食糧危機"
が訪れると言われている。特にわが国は"食糧自給"が確保されていないにも関わらず、過度
の"貨幣経済"の依存による"飽食"は、ひとたび"世界恐慌"が起きれば、ただちに"飢餓"に苦
しめられるであろうことが、容易に予測される。
"資本主義"の限界はすぐそこまで迫ってきており、わずかに歯車が狂っただけで、
いつ"経済恐慌"が起こっても決して不思議ではなく、悲しいかな、いとも簡単に日本は滅びて
しまうのである。
自分が生きているうちは、"資本主義"の限界がきてもなんとかなるだろうと、高を括っているが、
既にどうにもならない社会現象が多発している。江戸幕府の末期では三代改革と呼ばれたもの
を断行したが、結局幕府は滅んでしまった。現代日本でも、政治改革、行政改革、構造改革など
を行っているものの、これこそが限界の証である。 経済競争こそ発展と考えてきた、今までの価
値観を転換しなければ、地球人類に明日はない。 経済競争は言い換えれば"資源"の奪い合い
であり、国家の存在が戦争をも生み出している。ほとんど全ての国家が、他国民、他民族の生命
などよりも自国の富のほうが重要であると考えている。すでにわが国にもその火の粉が降りかか
ろうとしている。
こうした中であっても、永田町や霞ヶ関では、その対策が見出せずに誰もが立ち尽くしているだけ
である。 辛うじて絞り出した“道州制”などという愚策も、すでにスケールをひと回り小さくして実験
された“平成の大合併”(市・町・村合併)が全く効果を得なかったことでも、明らかである。"経済優
先社会"には、戦争という殺し合いと、企業の競争が経済の奴隷と化した国民性を生み出している。
子どもたちはそれを見て育ち、人を殺す事に何の疑問も持たない人間が誕生する。
"利子"によって膨れ上がる債務、絶えず成長しようとする"資本主義経済"は、人々を苦しめ、貧
困に喘ぐものと欲望の塊である"資本主義"の豚を生み出した。又、官僚などという必要のない輩
が、国民から税を巻き上げ、不必要な仕事を生み出し、官僚機構はさらに膨張しようとし、「大きな
政府」となって国民の利益とは無縁の利権構造を拡大させる。この反省にたって政府の規制を外し、
官から民への移行により「小さな政府」を作るのはいいが、このままでは己の利益を貪ることを煽る
だけである。
金を稼ぐことが正義ならば、他人の生命など知ったことではない。このような論理が正義として成り
立ってしまうのである。 権力者が勝手なことをしていても、自分は安全であるなら良いと考える人
もいるであろう。
しかし、現代の抱えるさまざまな問題を見れば、それすら上手くいかなくなってきたのである。 財政
赤字、年金破綻、少子高齢化、永久不況、大義なき戦争、テロ、少年犯罪、治安の悪化、環境破
壊などなど。
これだけ揃えば全ての人類が例外なく、殺される対象者リストに記載されてしまうのは間違いない
であろう。
一刻も早く、これらの課題に全力で取り組まなければならない。人類に残されている時間的猶予は
わずかである。
今日まで己の地位を高めることのみに明け暮れた政治家がこの国を支配してきた。それにあきれ
果てた国民は、そのような利権政治家を批判して改革を掲げている政治家に期待し、彼らはさっそ
うと登場してきた。だが利権政治家と改革政治家の対決構図の中身といえば、いずれも枝葉末節
の議論の繰り返しであった。これは、ありとあらゆる"既成政党"が、"欧米資本主義"を土台にした
経済優先の政治思想から抜け出せないからである。画一化した学校教育によって生み出された政
治家は、所詮常識の範囲でしか物事を図ることの出来ない、官僚の操り人形でしかありえない。今
までこうした難問に挑む政治家は少数ながら存在した。しかし既存の概念に代わる明確なビジョンを
持たないまま、敗北し、疲れ果て、やがて諦め、現政権に観念するか、或いは取り込まれていった。
今のままの政党だけでは、絞殺が良いか毒殺が良いか直ちに決めよ、さもなければ射殺するぞ、と
いうことを突きつけられているのと同じである。
欧米の生み出した"自然破壊型資本主義"によって、地球人類はもはや前途に一寸の光すら見出す
ことが出来なくなった。
少しでも多く"貨幣"を獲得し、"所有"し、"貯留"し、"増殖"させることが幸福を得ることであると信じ、
それによって全ての問題を解決できるという盲信に基づいている。 それでは"社会主義"のほうが良
いのか、という話になるが民間で資本を奪い合おうと、政府に資本を集中させようと、資本の虜になっ
ていることに変わりはない。国家による搾取と独裁はますますの弊害を来すばかりである。
ゆえに"社会民主主義"や"共産主義"も例外なく、"資本主義"の一事象に過ぎないのである。
人間は経済によって生きているのではなくて、自然の力によって生かされていることを今一度思い直
さなければならない。
自然の摂理に基づく貨幣、自然の摂理に基づく市場、自然の摂理に基づく土地制度を作ることで、暗
闇にいる地球人類は光を見出すことができるであろう。
前述したように、そもそも戦争は食糧資源、エネルギー資源の争奪であるから、自国において食糧と
エネルギーが無償で供給されていれば、無益な戦争はなくなるはずである。これを実現するには"貨
幣"による食糧・エネルギー獲得から脱却し、自然から直接生命の源を摂取することである。
日本には幸い「米」という素晴らしい宝があり、エネルギーについても新技術の完成は目の前まで来
ている。目先の景気対策に大金を費やすのであれば、未来を見据えた自然エネルギーの開発に国
運を賭けるべきであろう。
いずれにしても、この改革を成し遂げるには、まず現行の経済制度を破棄することから始めなけれ
ばならない。今日まで有難く信仰されてきた近代経済学、マルクス経済学には重大な欠陥があり、そ
れを覆すのが『自然主義経済』である。即ち減価する通貨『自然通貨』という仕組みを利用して、人類
の共生を成し遂げることができるのである。 『自然主義経済』を達成することにより、"国家"と"官僚"
による支配、"資本"と"貨幣"による呪縛から解放されるであろう。
今まさに全人類の生き残りを賭けた、歴史的大変革を起こす時が来た。
さて、今日まで、現政権を批判するだけで、政府与党の悪事を告発することに生き甲斐を持つ極め
て低次元な政党は多数存在した。いや、現政権と戦った政党或いは反政府的運動家はこれに終始し
たといっても過言ではない。彼らは代替案としての政策を形式的に打ち出してはいたが、確かな解答
になりえず、現政権と基本的世界観が同じであったため、決定的な改革に至らず、政府与党にただ
お灸を据えるためだけにとどまったのである。
今こそ既存のいわゆる常識から脱却し、自然主義経済に基づいた全ての政策問題に画期的な具体
案を提示し、大変革を断行しなければならない。
このことは日本に革命を起こすばかりでなく、全地球上に革命を起こし、地上天国の建設を図ること
に、必ずや繋がるであろう。よく、明治維新以来、終戦以来の改革が、迫られていると何度も口には
されてきたが、それは現行制度の微調整にすぎなかったのではないだろうか。国際社会では、今ま
でどれだけ西洋的であるかが進歩の尺度となってきたが、それとは正反対に明治維新前の江戸時
代日本、革命前の清時代中国、独立前のインド、殖民支配以前の東南アジアには、東洋独自の思想、
即ち物質だけに囚われない自然と融合する地域共生社会があった。
今こそわれらの本質である「東洋思想」を呼び戻し、食べ物をフォークで突き刺し、ナイフで切り裂く事
に象徴される"西洋思想"とは一線を画すべきであろうと思われる。
現代文明を残しながら、東洋思想を尊び、経済のみに支配されない「生命最優先」の社会、真の世界
平和を達成するため、不断の決意をもって立ち上がろう。
そう、この愛する※日本がダメにならないうちに・・・
※ここで言う「日本」は「日本国」と言う意味ではなく、「日本地域」をあらわしている。地域の伝統や文
化などは尊ぶべきものであるが、極度のナショナリズムによる国家や国境への固執は戦争や紛争の
根源にしか成りえない。
本来自然界に存在する石油、水、土地などは誰のものでもないのであるから、その恩恵は地球人類
が等しく享受すべきものであると考える。
日本がコンクリート護岸工事まで施して、領有権を主張している「沖の鳥島」はまさに赤面の体と言わ
ざるを得ない。